ニュースレターNO.22から


ヴォルテ体験記
 
 前号では、長谷川さんに体験記を書いていただいたその前半をご紹介しました。本号では、日常生活ではどんな変化があったかの後半部分をご紹介いたします。

 つくづく思うのですが、一人の人はそこにいるだけで、その人にしかない雰囲気、存在感を発しています。そして生き方であれ、一言残したことばであれ、耳を傾けることができれば、その人だけにしか語ることのできないことばを発している。ただ残念なことに私達が気づくのは、おうおうにしてそれらを失ってから、ということが多いのですが、一人の人がそこにいてくれて、生きているということの十全の重さをふだんはなかなか感じません。そんな風に思います。

 そこまで詩的な意味ではなくても、私達は毎日ことばの中に身を置いて、ことばの流れの中に入り、巻き込まれ等して、また自分もその流れの中でことばを発し、して生きています。だからことばを学べば、日常が変わるのは当たり前。とは言いつつも、ヴォルテで学ぶことで、実際に何がどんな風に変わっていくのでしょうか?

 もちろんご本人が感じる変化と、周りにいる人が感じる変化とは違うかもしれません。また自分自身のことを自分が一番知っているかというと、そんなこともありません。おまけにすべてがことばにできるわけでもありません。でも「大人がことばを学び直す場所」とうたっているヴォルテに通うと、どんな変化があるのでしょうか?言語造型を学ぶということはどんなことなのでしょうか?大人が、何かを学びたい。それもことばを学びたいとはどんなことのか?

 みなさんもぜひ想像してみてください。私にとってことばはどんなものなのだろう?どんなことばが今までで印象に残っているだろう?どんなことばを発する人になりたいのだろう?ことばって何なのだろう?と。
 ことばにしなければ、わかったようでわからない。ことばにしかできないことがある。ことばにできないことは温めて抱え、しかしことばにできることは、ことばにしていくことが必要です。私はそう思います。

 ヴォルテで学ぶとはどんなことなのでしょう?いったい何が得られるのでしょう?それにはやはり体験した方にたずねるのが一番です。


WORTE体験記 後半 長谷川裕美

 レッスンを受けていると、ことばの世界だけにとどまらず、日常生活でも大きな糧となっている。私が一番最初にそう感じたのは、初めてのレッスンを受けてから数日経った時のことでした。自分の中に「甘え」の体質があることにふと気がついたのです。

 当時私は長女と次女を車で30分程かかる幼稚園へ通わせていました。その園は無認可で補助金もなかったこともあり、母親達の仕事がたくさんありました。その頃通園も3年目を迎えていましたが、私はその間に下の子を抱えていたり、妊婦になったりと、なかなかお手伝いができずにいました。それを当然と思っていたわけではありませんが、私は自分の小さい子を守り育てることで頭がいっぱいで、その分の仕事を誰かが背負ってくれている事に対して、あまりにも心くばりがなかったと思います。申し訳ないとは思っていましたが、でも私の選択が間違っていなかっただろうかという所にまで考えが到りませんでした。

 小さい子を連れて、しかも遠くから、仕事のたくさんあるその園に通う事は分不相応だったのではないか。あきらめて、自分のキャパの中で子どもに与えられるものを選択すべきだったのではないか。こんなに他人に甘えて自分の子どもたちを育てていいのだろうかと、悩みました。そしてその事に気付きもしなかった自分の幼さにとても腹がたちました。同時に、こういう考え方ができるようになったのは、きっとヴォルテのレッスンを受けたからだと直感的に思いました。ただしこの考え方に固執すると、逆の立場になったとき「弱者は排除しろ」的な考え方になるので、それもまた違うなと思います。

 ただ私にとって自分の中の「甘え」を知る事はショックではあったけれど、考え方も広がったし、かえって生き易くなりました。ヴォルテのレッスンを受けると色々な場面で、今まで見えなかった自分について知ることがあります。きつい時もありますが、でも成長していくための欠かせないステップなのです。
(その後この幼稚園には次女の卒園までお世話になりました。あの時、皆さんにとてもよくしていただいた事を心から感謝しています)


 ヴォルテに通う前の私は、話し合いの場というのがとても苦手でした。他の人の話を聞いているとどれも良いように聞こえ、意見を求められても何も思いつ
かず、たいていの場合、一言も発しないまま会が終わるのでした。あるいは何か発言する必要があるとドキドキして、顔を真っ赤にし、息もつかずに一気にしゃべり、話し終わると「ふーっ」と息をつき、手もワナワナと震えているという感じでした。そのくせ家に帰る途中とか、帰ってから何かいい案が思い浮かんだりして、どうして今頃おもいつくのだろうといつも後悔するのです。

 ところがヴォルテに通い始めてからは、話し合いの中で自分の意見がまとまる事や、提案を思いつく事が出てくるようになりました。次にはそれを発言したいと思うようになったのですが、何せ慣れていないのでその勇気が出ませんでした。そこでレッスンで教わった身ぶりを入れながら話してみると、意外と言葉が他の人に伝わりました。

 ところがそのうち他の方が話しているのにかぶって話したり、しゃべりすぎたり、気負い過ぎてしまうようになりました。

 今は思い付きで話さないようにしよう、他の方の意見も否定せずにきちんと聞こう。その上で普段考えていた意見を話せる機会があればきちんと話そう、と 思っています。そうすると何も発言せずに終わる時もあるのですが、以前とは違って話し合いに対してポジティブな姿勢でいられるのです。そして話し合いのあとで新たに意見が沸き上がっても、温めておけばいつかそれを発言する機会があることも知りました。今は話し合いの場にでることが、苦痛ではなくなりました。


 同時に人の悪口を聞くのも大丈夫になりました。それは相手を悪く言っているのではなく「私ならこうする」とか「こうしていればもっと良かったのに」という意見に聞こえるからです。先日飲んで悪口を言った後に「でもね、私、○○さんが嫌いなわけじゃないのよ」と言っていた方がいました。ああそうなんだなあと納得できたのです。これは反感と共感の身ぶりのレッスンを受けた事とも大きく関わっていると思います。


 「ことばと子どものごちそう」シリーズ6回目では「気質」についてのワークがありました。四つの気質をひとつずつ体験していくのですが、言葉だけで説明を聞くのとは違い、全身でそれぞれの気質を感じることができ、とても分かりやすかったです。このことは友人や家族、そして自分自身を理解するのにとて
も役立っています。

 うちの長女はどちらかというと胆汁質、私はどちらかというと粘液質。二人はとてもぶつかり合います。気質のレッスンを受けるまでは、「何でこの子はこんなに怒るのだろう?」と泣きたくなる時がありました。今でもそういう場面は私にはとてもつらいのですが、でもレッスンで胆汁質を体験した事で、彼女の行動の奥にあるものや、彼女の気持ちが、以前よりもずっと理解できるようになりました。そしてこの子の「正しさ」とか「行動の素早さ」等の長所も見えてきました。

 解っていて叱る(正確に言うと怒り返しているだけかもしれません)のと、解らないで叱るのとでは、叱られる方も違うようです。「こんな母親を持ってかわいそう」と反省している時に、「お母さんはけんかしてくれるから好き」と言われた事もあります。本当は掌に乗せて暴れさせてあげられればいいのでしょ
うが、私の手は小さくて落としてしまいそうです。

 各クラス、毎回言語造型練習文のレッスンから始まります。前学期受講したクラスでの言語造型練習文のレッスンには、自分の体調や感情に、自分が左右されないようになるためのレッスンや、周囲の状況や感情に振り回されないようになるためのレッスンがありました。これらのレッスンは、毎回行われ、自宅での練習も課せられました。そのお陰だと思うのですが、最近、長女が怒っても起こり返さずにいられるような時が少しずつ増えてきました。まだまだ母は修行中です。でもヴォルテの助けが無ければ、この子との関係はもっとボロボロだったろうなあと思います。

 今、四歳の末の男の子は、とてもキカン坊で、幼稚園の先生に「お母さんより意志の力が強いのよ。大変だけど、がんばってね」と言っていただいた事もありました。それでも子どもに話す時、本気で伝えようと思って、球形をその子に向けてから「○○するよ」と言うと、ちゃんと聞いてくれるようになりました。私の言葉の重みが変わってきたのが実感できます。

 これから先、男の子がルビコン、思春期へと向かう時、母親の私が真すぐに言葉を伝えられるようになっていないと、きついだろうなあと思います。そのためにも私にとってヴォルテのレッスンは必要なのです。子どもたちの成長に、私の成長が追い付きたいのです。

 小さい子を置いて、何を夢中になっているの、と見ている方もいると思います。でも、私がレッスンを受ける事で、子どもたちにもきっとよい影響があると思っています。もちろんそれだけでなく、自分が楽しいからなのですが、あしからず。

 余談ですが、いっとき、子どもたちに「お母さんはなんでヴォルテに行くの?行かないで」と言われたことがありました。当時小学校3年生だった長女には 「あやは学校でお勉強しているでしょう。大人もね、やっぱり勉強しなくちゃいけないんだよ」と言うと、「ふう〜ん」と言っていました。
 1年生だった次女には「いいお母さんになるためだよ」と言うと、小躍りして私に抱きついて、ニコニコしていました。
 末の子は「ゆうちゃんも行くぅ」と言いますが、「うん。でもヴォルテには鬼がいるよ。悪魔もいるし、死神もいるし、おおかみもいるし、からすもねずみもいるんだよ」と言うと、「行かない」と言います。(ごめんね)「お母さんは恐くないの?」「お母さんは大丈夫なの」「包丁で切るの?」「そうそう」と続きます。彼なりにがまんしてくれているようです。

 我が家の子どもたちは3人とも、絵本やメルヘンが大好きです。毎晩一人一人お話を選んできて、計三話を聞きながら眠ります。せめてものフォローだと思って、私は読んでいます。それは幸せな時間です。子どもたちにとって、この読み聞かせが「ごちそう」になってくれることを祈りつつ。

おわり


 長谷川さんどうもありがとうございました。

 後半部分を読みながら「そうやって通っていらしたんだ」「そんな風に変わってきたんだ」とか長谷川さんが学んできた歩みと重ね合わせたところがいくつもいくつもありました。その中の一つが、ご長女に「大人も勉強するんだよ!」と言うくだりです。

 古風な考えの方(失礼!)だと、小さい子を放っておいて!と思われる方もいるかもしれません。でも生活環境もそして私達の意識の状態もこの十年、二十年でずいぶん変わりました。それはそれは激しい変化です。まさに数年ごとに、どんどんどんどん、「自分」を巡る欲求は高まり、人間らしく生きて行くこと
が大変になってるような印象があります。

 「今までのほうが良かった」とか「今までのシステムが一番」とは、何を見ても、どの分野においても言えなくなった時代が到来しました。好き嫌い、あるいはその善し悪しとは関わらず、それが私達の「今」です。

 みんな自分の人生は、答えもないし、マニュアルも無い中、当たり前ですけど、手探りで生きています。その手探りが、誠実であるかどうか、人間としてまっとうだなあと言えるものがあるのかどうか。それをできるだけ忘れないようにして、それがまた年をとればとるほど忘れるのが上手になってしまって、すっかりただ惰性で生きているだけ、ということになってしまうのですが、忘れないようにして生きていくことはとても難しいです。

 困ったなあ、迷ったなあ、と手探りしながら、でもこういうの好きだなあ、これが大事に思えるなあという有形無形の、無数の小さな行為と思い。そういうものをいっぱい見ながら大人になった人は、先行きのない泥のように見える世界の中でもよく見れば、キラキラと輝いて、自分はこうしていきたいという、やっぱり有形無形のたくさんのキラキラしたものを、たくさん作り出していける。私にとってことばを学ぶとはそういうことであり、人はそういうものによって生きている、と私は思い
ます。

 私達の今、ここで生きている社会は、私にとって、楽しいだろうか?輝いているだろうか?何に苦しんでいるのだろうか?何を悩んでいるのだろうか?何がわからないで困っているのだろうか?そういうものの全てを、私達は存在しているだけで、発し続けています。ご自分のお子さんだけではなく、すべての子ど
もたちはそれを見て、呼吸するように吸い込んでいる。そこでは人は取り繕うしまもないですよね。

 ただし、現実なしにキラキラせよ!ということでは決してありません。

 現実そのものは、まったくといっていいほど、キラキラとはしていません。現実は無味乾燥で、泥みたいに一様で、というむごい面を持っています。だからこそ、キラキラするもの本当の価値が見えてくる。だからこそ、どんなに目立たないキラキラでも、どんなに些細なキラキラでも見つけだし、慈しみ、そしてまた、自分のそれも、守り抜くのが問われている。という風に私には思えます。

 そんなとき、今の時代はなかなかそんな余裕もないのですから、何かしら、どこかしらで、楽しく何かを学んでいくということは、大きな助けになると思います。

 だからこそ、「大人もずっと学ぶんだよ!」と学び続ける大人がいることは大事なんじゃないかと思います。なんか楽しい事があるんだな。それもお金を出して消費する快楽ではない。買って、食べて、使って、遊びに行って、それでおしまい、というものではなく、買えないもので、しかもなんだか自分が努力したり、練習したりするもので、楽しいものがあるんだな、と実際に周りの大人がそうしているので、子どもが感じ取る。そういう事ができたら、それは「つまらない」社会や、「どうせ、大人になってもこんなもんだろ」と先行きの見えてしまうような社会ではないんじゃないかなあ、と思うのです。進んで行けるという希望、楽しさ、手応え。そんな大人を見ると、先があるんだなあ、奥行きがあるんだなあということが否応無しに伝わって行く。

 もちろんのことですが、ヴォルテでなくていい。何かひとつのことをどんどんと深めて行きながら、生きていってみたらいいのではないでしょうか? そんなことを、長谷川さんの体験記後半部分を拝読していて考えました。

 短期間の間に執筆を快く引き受けてくださった長谷川さん、どうもありがとうございました!


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