残響を聴く ーあるいは後味を振り返るー



 今年もあっという間に過ぎて行こうとしています。けれども今年は国際情勢を見ても、日本の天災を見ても、あまりにも多くのことが起こったような気がします。それなのに次から次へと出来事が起こるために、過ぎ去る速度も早くなったかのようです。残念なことにあっという間に忘れてしまいます。

 でも何があったっけかなあと思って、自分の人生が過ぎ去ってしまうのはちょっとあまりにももったいないですよね。そこで時間を止める作業をお勧めします。以前ニュースレターNO.7で御紹介した「ワンポイントレッスン 静かな力」にひきつづき、時間をとめて振り返り、それがどんな感触をもたらせたのかを振り返るレッスンです。


ろ過する

 人に会ったり何かを体験したりすると、それらは印象を残します。印象を通して、その物事あるいは相手が私達に伝わってきます。印象にはしかし物事や相手の本質そのものだけではなく、私達自身の主観が否応なく混じってます。けれども静かになって、その印象を見つめてみることで、かなりろ過することができます。不思議なことに自分に残された印象、その響き(残響)を何度も聴くことで主観がろ過されていきます。

 主観のいったいどこが悪いのさ、と反論される方もいるかもしれませんが、自分の見方、捉え方、それだけで生きていって、しまった、とかまずい体験をしたことはどなたにでもあると思います。そんなときはやっぱり「なんとかならないかなあ、この自分」と私は思います。


「残響をきく」といっても

 だいそれたことのように聞こえますが、特別なことではありません。誰もがある意味で自然としていることです。「ああ、あのときこんなことがあったな。どうしたんだっけ」なんて具合にです。でも日常ではたいがいぼんやりと思い出して、そのままにしてしまいます。わざわざ残響を味わうとはどういうことでしょうか? 例えば一人の人が残した残響、あるいは後味、つまりその人が自分に残していった感触とはどんなものでしょう。
 

 もう何年前になるだろう?あんまり一緒に仕事をする機会がなかったから、親しかったわけでもなく、あのとき何で一緒に出かけたんだっけ? そうだ、時間があいたから、そばにあった公園に行ったんだっけ。

 ちょっと肌寒いなと思っていたら、同僚は缶コーヒーを買ってぽんと当たり前みたいに手渡してくれたな。温かかったな。「缶コーヒーは(あんまり美味しくないけど)こうするんだよ」とか言って手を温めたっけ。そんなことしてくれる人だとは思わなかった。

 ちょっと目が三角で、話すときは少し目をそらしたな。あのときは目を見ないのが、それもこっちが目をみているのに、絶対にあわせないようにちろっと見てはそらすのが、とても卑怯な感じがして嫌だったけど、いま振り返ると違ってみえる。たぶん、恐くて人の目をじっと見ることができなかったんだな。あのときは本当にわからなかった。まるで大きな体の後ろで細かく細かく震えているみたいだ。

 でもそのあとで、意見が違ってしまって、会議で小さな言い合いみたいになったんだ。それから口もきいていないし、目も合わせてない。いや、一度だけ、本社の階段で偶然すれちがった。あのとき、私を見ていた目。あれはなんだったんだろう。あのとき、ぱっと目があって、私は気まずくてぱっと目をそらして
……今もあの目が見える。責めてもいない。哀しんでもいない。怒ってもいない。なんだったんだろう。あの目はなんだったんだろう?なんだろう?今、自分は何に触れているのだろう? 


必ず静かになって

 何かをしながらではなく、必ずそれだけに集中してした方がいいです。というのも何かをしながらだと、そっちの印象もはいってきてしまうし、きちんと思い出すということができなくなるからです。きちんと思い出し、そこに残っている印象を吟味し、なんだったのだろうかと味わいなおすのですから、けっこうエネルギーがいります。

 だからこそ、何かをしながら、だったり、テレビをみながらではなく、そのためだけに時間を使って欲しいと思います。そうするのとしないのとでは、大違いです。小さなことが大きな大きな違いになります。


ろ過するだけではなく 
 ことばが深みを得るためには、ことばになる前の、こういう残響、後味、印象をどれだけ自分が一人のときに何度も何度も自分にくぐらせているか、がとても大きな意味をもってくるように思えます。

 ことばは文字になると表面しかないみたいだけれど、書き言葉であれ、話し言葉であれ、奥行きをもっています。そういう奥行き、深み、揺らぎ、のようなものはやっぱり、残響から来るのだろうと思います。


印象から印象へ流されるのは、脱水槽と変わらない 

 毎日電車に乗ってでかけるだけでたくさんの人を目にしますし、多くの広告、会話、商品、などを目にします。それらは通常、一秒と留まることなく過ぎ去っていきます。よく見る暇などありません。そんなことをしていたら前に進めません。だからよく見ない癖がついてしまいました。

 よく見ないので、憶えていません。今日一日一緒にいた同僚がどんなトーンで何を言ったのか、あんまり憶えていませんし、どんな洋服を身につけていたかも憶えていません。まるで洗濯機の脱水槽へぶち込まれるようです。同じことかもしれません。自分を保っているようでいて、その実ふりまわされているだけ、ということにならないよう、一日に数分、そして一年の間に折りあるごとに残響に耳をすまし、後味を噛み直すこと。

 本質的なことを項目化したり、ああ、そういうことだったのか、と意識にのぼらせることも残響のなかでしていくことができます。年末年始の忙しい時期が始まる前の今、残響に耳をすませること、お勧めします。



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