ニュースレター NO.26から 2006年11月号
どんな一年でしたか
お年寄りが杖をつき、よろめくようにして赤信号になりそうなのを無理矢理横断しているのを見た事があります。どうして、時間がたっぷりありそうなお年寄りがそんなに急いでいるのか、わかりませんでした。不思議で不思議で仕方がなかったのですが、先日もそんな場面を見つけたので、一緒に歩いていた母に不思議だと言うと、年よりは時間がないから焦るのよ、と答えていました。
小学校の頃、6年生は大人に見え、自分が6年生になって卒業するのは、永遠に来ないほど遠くに思えました。そうです。年々、年をとるにつれ、一年が早くなります。まさに、あっという間です。
そんなわけで、今年もあけたかと思うと、あっという間に11月そして、師走へと突入していく感じです。みなさんはいかがお感じですか?一年は確かにあっという間に過ぎてしまいそうだけど、「あっ」くらいしか内容がなかったかなあというと、そんなことはありませんでした。振り返ってみると、今年もありがたいことに「あっ」以上にたくさんの体験をし、いろいろな人に出会い、いろいろな思いをし、さまざまなことをいたしました。きっとみなさんもそうだと思います。
ヴォルテに関して言えば、ことばは子どものごちそうシリーズが復活し、ヴォルテのレッスンをまた多くの方達にご紹介することができました。その内容をニュースレターにもご紹介させていただきましたね。
講座のクラスも成熟してきました。各クラスが、自然とそうなったようなのですが、講座の後にも、喫茶店などでみんなで講座の内容について復習したり、相談したりするようになったようです。ペアどうしで、お家をたずねあって、一緒に練習してみたり、そういう横のクラスメートで学ぶ楽しさもあったようで
す。
夏のおさらい会では、受講生が中心になって、運営し、お客さまもいらして、講座で行っている朗読のレッスンをみなで楽しみました。
プライベートもいろいろありましたが、毎年、毎年、友人、知人、家族とたくさんの体験をし、もしも誰もいなくて一人だったら?地上にたった一人しかいなかったら?と思うと、周りにいる人そのものが恵みのようだとわかるのですが、大変な時期や大変な事件が起こる事もあるのが人間関係ですが、やはり恵みのようだとしみじみ思います。
人はゼロにして失ってみないと、わからないことがよくありますが、そうなる前に一瞬でも、恵まれていた事に気づくといいなあと思います。そこで、ヴォルテのニュースレター11月号恒例の1年を振り返るメソッド紹介に行きたいと思います。今回は振り返りながら印をつける。目印を付けて行くというのをしたいと思います。
一年を振り返る 目印をつける
この一年、どんな年でしたか?
印象を振り返る、自分がしたことをざっと振り返ってみてはいかがでしょうか?
年末はみなさんもお忙しいでしょうから、11月中に少し振り返って、春はこんなことをしたなあ、こんな気持ちだったなあ、夏はこんなことを考えていたなあと目印をつけるようにざっと振り返ってみてください。電車の中でもいいと思います。
そんなに改まって大げさに時間をとれなくっても大丈夫です。手帳を見ながら振り返ってもいいですし、季節ごとに振り返ってもいいです。細切れの時間を使ってちょくちょくすればいいと思います。
ただここで一つだけ注意!
この一年、大変なことが起こった人、例えば職を変えざるえなかった。近しい人が亡くなった。闘病生活に入った、ということがあった方は、大きな体験ですから、お家で、時間のある時、誰にも邪魔されない守られた状況で振り返ってくださいね。
思い出したり、考えたりわざわざしなくても、ついついそのことを考えてしまうような体験をした方は、あえてここで書く事をなさらなくていいです。ここで書く事は、大きなことが起こらなくて日常に埋没してしまいそうな時のため、と思って下さい。ちなみに、振り返るのが、辛い時には振り返る事はありません。「やろう」と思った時に時間をつくって、守られた環境を作って、1時間ちゃんと時間をとってからするのが一番ですね。
例えば近親者が亡くなった時、「ああ、そうだった。最初は慢性の糖尿病だったんだ。それが節制しないまま、どんどん合併症になって、目が見えにくくなって、それでも一つも不満を言わなかったなあ。でも私はそれを見ていながら見ていなかったんだよなあ」と思い出していってください。
出来る時に、です。自分で出来るかどうか、判断もできない場合は、出来そうもないので、しない方がいいと思います。もしも出来ればそれはしかし、大きな大きな行為になると私は思います。ただ、それには時期があるんですね。人生にはいろいろな時期があって、思い出せない、自分がどこにいて何をしているのかもわからない時期もあります。
ずっと同じ時期、ということはないですから、どんな状態も必ず変わって行きます。そうやって一枚一枚、薄皮をむくように人って進んでいく。終わらない夜はありません!
脱線しました。
さて、印象を振り返るというと大げさですが、心のお掃除をしていると考えていただければいいと思います。ちょくちょくちょこっとそうじして、年末には大掃除。だから大仰に考えずに、構えずに、ちょこちょこ思い出して振り返ってください。
少し静かな時間を取れるときには、ぜひこんなことを試してみて下さい。すでに何回か細切れに思い出したり、振り返ったりしていれば、思い出しやすいですね。
私は「絵巻物を作る」と言っているのですが、大きな紙に、絵が好きな方は絵を描いてもいいですし、一言でいうと「焦りの春だった」とか「もがきの春だった」と言葉に置き換えてもいいです。体験を絵巻物に書いて行って下さい。そうやって体験を自分の表現へ、変換をしてみてください。目印みたいなものです。自分の生きた一年に目印をつける。「あっ」という間だった、といって過ぎ去らせてしまうのではなく、自分で振り返ってみて、こんなだったなあ、
と目印をつけていく。旅行に行ってそれを自分なりに整理するのと同じですね。
目印をつけていいくと、自分はこんな疑問を持っているんだなあ、こういうことをテーマに来年は生きたいと、今は自分はこんな所にいるんだなあ。来年は
ちょっとこうなるかな。こうしたいな。という具合に、自然とテーマ、疑問、問いが浮かんでくると思います。本当ですよ。ぜひ試してみて下さい。
教育とことば その1 まず口ごもるほどに
このシリーズではことばについて、それも子ども達のために、という観点を加えた上で見ていきたいと思います。まず最初から申し訳ないのですが、最初が
肝心と言うことで。
「子どものためになるって言うから(自分は本にたいして興味はないけど)子どものために(好きじゃなけど)本を読む」
ヴォルテにいらしたお母さんたちのほとんどは、最初の1、2回はこのきっかけですが、すぐに自分がしておもしろいから、自分が学びたいから、に変わります。
確かに読み聞かせは、シュタイナー教育以外でも大事にされているし、なんだか大事そうですよね。「だってシュタイナー教育の本にそう書いてあるんだもん」言っても、ご本人がもともと本なんて好きじゃない場合、昔話にもメルヘンにもあまり興味がないけれど、子どもによさそうだから、まあ、してみるか、
というケース。
そんな風に読んだ時に、子ども達に伝わるのは実際のところは何なのでしょう?
実は本の内容よりも、嫌そうに読むあなたの姿、その心の状態、「だって、〜なんだもん(でもつまんないなぁ)」だったりします。それならばいっそ止めた方がいいです。そう思いませんか?
それから、ならば好きならばいいのか?ということですが「だって好きなんだもん」というのもまた押し付けになりやすいので、「好き」という感情がどんどん深みを増していくように関わって行けるかどうか?だと思います。というわけで、このシリーズ、みなさんの予想に反するかもしれませんが、言語造形家としてお渡しする解答集ではなく、別の事から始めてまいりたいと思います。
ことばってなんだ????
大人である程度まともな気持ちをもて生きていれば、「ことばってなんだろう?」という疑問を抱いたことは、どなたにでもあると思います。それがまっとうな大人です(ここはキッパリいきたいと思います)。
ことばって何なのでしょう? この疑問がまず存在しているでしょうか?
答えはいりません。不思議なことに問いが本当に生じる時、答えは遠くありません。問いと同時に答えもぼーっと一緒に浮かんでいることもあります。答えばかりを集めるのではなく、疑問が生じることがまずとても大事なのではないかと考えています。
立ち止まって疑問が生じるかのはどんな時かと考えてみると、たいがいは上手く行かない時ですね。ぽんぽんとすべてが上手く行っている時はあんまりものを考えなくなってしまいます。どちらかというと「ちょっと待って!」とでも言われてるみたいに、外から出来事がやってきて、自分がつまずく時、問いは浮かぶのではないでしょうか?つまずいたり、スランプになった時こそ、心になにかひっかかったり、「ことばってなんなのだろう?」という疑問が生じたりします。
そう考えると、つまずくって良いことですね。
ことばってこんなものだろう、と割り切ってしまったり、悟ったつもりになってしまうのも、それはいかがなものか、と思いますが、かといって、ことばって素敵!すごい!と具体例もなく、周り中お花畑にでもなってしまったように、感動してしまうのも困りますね。それは自分の感動を押し付けているだけで、ことばと関わりながら感動するのとずいぶん違います。
こんな風に(こういう方にも出会うので)自分の形にならない憧れをことばに押しつける、自分の感動
押しつけ型もお勧めできないです。(ここもキッパリいきたいと思います)
まずは口ごもるほどに
シュタイナーがしたように、熱い心で、でもきちんと問う(科学的な態度で臨む)。ことばが何かを問うことは、人間とは何かを問う事に等しいのではないかと私は考えています。だから結論として、ある時期口ごもっていいと私は思います。いや、ある時期口ごもるべきだ、と考えています。
その人から発されることばが、本当に素晴らしいものになるためには、つまづいて、自分の頭と心をフル回転させて、考える。
人生とは何かいうと、それが何かを求めるためにあるものだ。求道、すなわちこれ道である、とは宮澤賢治は言ったそうです。やはりそうか、と思います。
答えを集めるのではなく、求めることを大人が大事にしたら、教育もずいぶんちがうのかもしれない、と思います。
そこに生きて悩んで、くちごもったり、考えたり、している人がいるかどうか、は、大人になる途中の子ども達には、必要な伴走者なのかもしれません。
口ごもる、とは別のことばで言ってみると、キラキラ光るお星様やひらひら舞う天使ではない自分を知ることです。そうありたい気持ちはあるかもしれませんが、事実ではないですから、そこを持ちこたえて自分はじゃあなんなのだろう?と見てみようとする。
ここで気をつけたいのは、ベクトルを反対にもっていきすぎないことです。自分はダメだ、と自暴自棄になったり、自分が努力して自分が理想とする人間になりうる可能性があるのにそれを自ら放棄するのも、現実的ではありません。このバランスが難しい。
ことばは確かに、一つの独立した存在で、ことばは輝いている。でも私は輝いていない。塵である自分と、星にむかっている存在でる人間としての自分の間にいる自分。どっちも本当だけど、両極端に違う。そこで引き裂かれそうになり、そこで人は一度、ことばはなにか?を問うて、ことばを失うのではないでしょうか? それが口ごもることではないでしょうか?
ヴォルテのステップ
私はヴォルテでお教えしている際に、こういう求め方はして欲しくないというスタンスを持ってレッスンを構成しています。繰り返しになりますが、ズバリ、問いをもたずに、答えだけ集めること。これは「ことば」をうわっすべりにしますので、極力避けたい事です。加えて、それでは物事を学べません。
ここで下の三つを見て下さい。人間がいる時に常にこの三つをしている、という三つです。
(この三つに関しては、このニュースレターの『すべては素話 その1』をご参照ください・サイトにはありません!ごめんなさい)
1 まず世界を他者を知覚し、あるいは少なくとも知覚しようとする(聴く)
2 それを自分の中で吟味して素晴らしいと思うものをはっきりさせる。
3 素晴らしいものを外からひたすらコレクションして、食べ尽くしてしまうのではなく、自分の力で素晴らしいものを生み出そうとする。そのもののために、自分を捧げものにする。贈り物にしていくために、自分を良いものにしようとする。
私はこの三つが大事だと思っています。肉体が呼吸するのに等しく、魂は内と外とを行き来しています。ヴォルテの中では、まずお話しをできるようになって欲しいと思います。この3つを見直して行くステップが、実はヴォルテで学ぶ素話のステップに他ならないのです。
素話をきちんと学ぶのに、だいたい1年半から2年かかります。初めて来た方は驚かれるのですが、そうなのです。この三つを見直すことを視野に入れてお話を学ぶので、まるで自分を見直して産み直すよう。まるで産道のような暗いトンネルを抜けていくよう。
出口に辿り着くまでに、自分が大事に思うものと、 どうしようもない自分の二つに出会うことになると思います。以前よりも「ことば」に近づいているのに、よりわからなくなっている自分の状態に驚くかもしれません。そんなときは口ごもる、あるいは沈黙するしかないです。
あきらめるためではなく、抱えて、また口を開くために、沈黙する。
こういう沈黙には輪郭があって、確かな重さや色合いがあるので、講座で拝見していて、今産道に入ったんだなあ、とわかります。かつての自分は質問、疑問、問いさえなかったけど、今ははっきりとわからないこと、どうにもならないことを胸に抱えている。まずは口ごもるほどに、物事の本質にぶつかりること。ことばを学ぶ際の基本だと思っています。
沈黙の先にあるものは、恐い程ちゃんと伝わってきます。何も言うことがないから、中身がないから黙っているわけではないので、当たり前のことなのですが、だれかが伝えたいことをうちに秘めて、それでも言えなくて沈黙しているのは、すごい迫力です。誰かがあなたの前に真すぐに立って、口ごもってしまいつつも、でも語ろうとする。沈黙を経て語られる言葉は、詩のように「ごちそう」です。
詩的なものからしか「誠実な」ことばは生まれてこないし、そんなとき子どもほど優しい存在はいません。地上に生きる先輩として、ことばが人間がどこにいて、どこへ向かおうとしているのかを自ら探す時、あなたが生きる姿そのものが、子ども達が大人になったときにまで、その胸に温かく激しく灯りつづけるはずです。
人間はことばにならないものをいっぱい抱えて、ことばを発している。それが見たくないかもしれないけど、大人である以上、抱えている出発点です。そういう意味で「詩的なもの」に向かおうとすること。それはつまりあなた自身のことばを見つけること。
声はその時あなたの声におのずとなっているはずです。声が嫌い、ということは、自分のあり方が嫌いだということなのです。
長くなりましたが、大人が本来子どもの時代に通過したお話の世界に、わざわざ戻ってことばを学び直すような贅沢をする場合、このような厳しさが必要になってきます。(なぜかというと、だってみなさんはもう子どもじ
ゃないんですもの!)
口ごもるトンネルを、暗い産道を通過して、この世の光へ向かうように、通過して欲しい。そういう場所で、ヴォルテはありたい。ことばを考える時、消化不良なほど、答えを集めていませんか? 子どものために、と言いながら、自分自身がことばとの関係を築こうとしていない、ということになっていませんか?