素話とは?
素話とは、「自分のよく知っていることを、自分のことばで、伝えたいと言う気持ちを第一にお話すこと」とヴォルテでは定義しています。素話、朗読、ストーリーテリングが何かは、様々な学び場所によって、異なるかもしれませんが、素話はお話をテキスト通りにしなくてもいいのです。そのかわり、ちゃんと自分の全部が動いていなければなりません。
今日は素話のレッスンのステップ紹介ではなく、このレッスンをしてきたなかで、気づいたこと、印象に残っていることを書きたいと思います。
あれ?全部できてるのに、おもしろくない?
ヴォルテで学ぶ表現のテクニックだけをすっとできてしまうのに、全然心に響いてこない、そんなお話をする傾向を持つ人たちがいます。その人たちの特色は、おそらく社会では優秀な人たち、と言われているのだろうということです。ある意味、当たり前なのです。もじもじしたり、迷ったり、困ったり、考え過ぎたり、そういう一見「無駄」なことを省いて、ないものにして生きれば、優秀にはなれます。でもそれには代償があります。味わい、おもしろみです。
そんな人たちのお話は実際、味わいがなく、実体のない、聞いていて面白くないです。聞いている人の心がは惹きつけられぬまま、お散歩し始めたり、眠ってしまったりします。「心なんてないよ」とすれば、確かに優秀に機能できるんだろうなと思います。でも心をなくして、優秀になれたとして、優秀で生きたとして、何の意味があるんだろう?
お話だと、うまく話せたとしても、感動しない話しかできません。部屋もあたたまりません。聴いている人の心が温まらないです。それは語り手の心が動かない、温まっていないからです。心を動かしたその上にことばが乗るので、乗る土台のないことばは、実体がなくなってしまいます。こう考えると、優秀さとはかけ離れた無駄に見えるものこそ、人の心に訴えかけているみたいです。
何をレッスンするのか? ピンチだ!
あらすじからやり直し
おもしろければ、失敗していいんですよ。
あらすじなんて忘れる程、自分が好きなところだけ話してください。
どこが好きな場面なんですか?そうじゃなくて、魂はマニアックなんです。この場面の、ここがこうなって、ああなるこの角度が好きなんだ、と話しながら、それを自分の心でなぞって再現してください。
好きな場面だけ、話してください。そこを中心にして、その前後を何がどうした、とあまりにもそっけなく聞こえるくらいでいいから、だって好きでもなんでもないんだから、はっきりそれがわかるくらい、あらすじだけ、話して下さい。
これが私のアドバイスです。
でも実際は、好きを失っているのです。自分なんかが好きなところを、話してもいいものか、という逡巡があまりにも大き過ぎて、話せないのです。話せないだけでなく、自分が何を好きなのかさえ分からなくなっている人モいます。何十回と読んだのに、そのお話の好きなところがない人、わからない人もいます。
好きじゃないのに何十回も読めてしまうことは恐ろしくさえあります。
心は動かさないと、さびてきます。だんだん動かなくなります。動かなくなると、ますます動きづらくなります。心が動かないと、他の人の心も心としては感じられなくなります。魂はピンチです。
優秀と言われる人が払う犠牲はあまりにも大きい、と私は悲しくなります。生徒さんは学びたくて、こんな私のところに来ているので、それだけでもとても大事です。どの人もかわいい生徒です。その生徒さんが、どこが好きなのかわからないほど、心を疲弊させている。これは悲しいです。
心は心に触れられて、心であることに目覚める
でも心を失しなったのには理由があります。成長するまでの間に、自分はこれが好き、嫌い、と言える場所がなかったのです。家庭に、学校での交遊関係に、それがなかった。大人になれば、どこか別のところへ移動して暮らすことができるけれど、子どものうちは移動することはできません。そこにいて生き延びるしかありません。
それには心をマヒさせたり、自分だけど自分ではないかのように、逃げ場所を意識の中に作ってそこへ逃げ込んで生き延びるしかなかったのでしょう。心はそうしてシステムを作って、その中でなんとか生き延びていきます。でもそんな人がお話をしようと私の前に立つ時、そうなった歴史が、理由が幾層にもなって現れてきます。その傷は私には、その人を今あるその人たらしめている目印、印のように見えます。だからそれを壊そうとは思いませ
ん。他のことも見てみようよ、してみようよ、と思います。
心は、自分の心を知るには、誰かに認めてもらうプロセスを必要としているんだなと実感します。心は他の心を必要としていて、それがあるから、自分の心になることができる。寂しい時に「寂しかったんだね」と誰かに言ってもらなければ、寂しいということがわかりません。寂しいと分かっても、それを口にできる場がなければ、ことばと心はどんどん乖離していきます。心は心によって、心になる。
だから、私はセラピーをしているわけではありませんが、ことばのもつ本質上、それに近い効果がでることをどうしても避けて通れません。セラピーではない範囲で、心が心に触れられて目覚めるよう、レッスンをします。講座の場をつくります。
好きな場所がわからない。わかっても、そこだけは話せず、他のどうでもよい場面ばかりを延々と話し続ける。痛いです。心がピンチで悲鳴をあげているのに、本人にはその悲鳴が聞こえない。私に出来ることは隣に力強く立ち続け、根気良くステップを示し続けることだけです。歩くのはその人です。
自分が何を好きか、わからない。どこを好きか一緒に根気づよく探します。その場面こそが、お話の中へ入る入り口です。中へ入って、中からあらすじをつかみなおしていきます。そしてクラスメートやペアが、一緒に耳を傾けている時に、好きな場面を話し、その人の心が動くと、その場面だけが生き生きと映像になって聴き手の心に残ります。忘れられないことばであり、時間です。確かに大人を教えるのは大変です。大人には子供達が持つようなありあまるほどの、柔軟性はないかもしれません。でも大人が変わるときの、迫力、その真剣さ、切実さに触れると、子供ではなく大人を教えていてよかったと、思うのです。運命に触れるような重さが、重厚さが、そこにはあるのです。神聖さのようなものさえ、感じます。
間違えようよ!
自分の好きな場面だけに留まるのではお話はできません。でも好きなところから始めなければ、贈りものにする材料がありません。いいじゃないですか、間違えても。どこが好きなのか、何が好きなのか、贈りものにしてください。誰かが一生懸命話すとき、耳を傾けざるえないような、迫力が生まれるんです。そしてそれは好きなところからしか、始められないんです。あらすじを忘れたって、失敗したっていいじゃないですか?心が話しはじめる時、失敗とか成功っ
て、そういう風にはないんだよ!