初めに
シュタイナーの始めたアントロポゾフィには、あまり知られていないようですが、修行があります。
何のために修行をするのか、というと、超感覚的な認識にたどり着くため、です。
そのため、と言い切っていいのかわかりませんが、一応、そのためです。
さて、アントロポゾフィというと、オカルト、とか宗教みたいだけど、宗教とは違います。
シュタイナー自身、アントロポゾフィは信じるものである宗教ではなく、世界観なのだと何度も言っています。信じるしかない教義と、自分でそうかなあと考えながら生きていくのは、どちらがいいとか悪いとかいうことではなく、二つの違うものです。
でも、世界観と言われても、 通常は耳慣れないですよね。
身近にいうと価値観と考えていいと思います。私達が何を大事にしているのか。何かをする時、何を価値規準にしているのか、ということも世界観に含まれます。でももっとも大きなものは、自分は人間をどういう存在と考えているのか、です。
人間ってどんな存在なのだろう? 人間であることは、どんなことなのだろうか?
人間がどんな存在なのかを考える事は、そのまま世界とは何なのかを考える事になります。
先日、本で『手紙』を読みました。書店に行ったら、たくさん平積みになっていたので、買って読みました。今、映画で大ヒットして、コマーシャルを御覧になっている方も多いと思います。
あらすじをざっと書いてしまいます。(知りたくない人はここは飛ばしてください!)
親がいない兄弟がいます。お兄さんが働いて生活しているのですが、弟に大学に行って欲しいと思っています。お兄さんが腰を痛めてしまい、お金がないのを見て、弟は高校を出たら自分も働くこうと考えます。お兄さんは焦ります。お金を見せれば、弟が大学に行ってくれるのではないかと、以前引っ越し
作業で入った事のある家に強盗に入り、家の人(おばあさん)に見つかってしまい、殺してしまいます。
その日から、弟は生活を自分でしなければなりません。が、強盗殺人者の弟というレッテルが高校でも職場でも、どこでもついてまわります。自分がした事ではないのに、ずっと差別され続けるのです。お兄さんは刑務所から、月に一度だけ書いていい手紙をせっせと弟に書き続けます。
弟は、結婚し、子どもができるのですが、自分の娘がその言葉の意味もわからないまま「人殺し」と言われ、他の子と遊んでもらえなくなったのを知ったとき、決意をします。
そしてお兄さんに手紙を書くのです。
事情を短く書き、自分がお兄さんのせいで差別され続けてきたこと、子供まで同じ目にあっていることを伝え、これが最後の手紙だ。ごめんと何度も謝りながらも、縁を切る事にします。
最後に、ある事がきっかけになり、縁を切ったはずのお兄さんの入っている刑務所に慰問に行きます。その場面が最後です。弟は声が出なくて、ジョン・レノンの「イマジン」が歌えない、声が出ない、で終わりです。
これが解答!というすっきりはっきりした答えがないテーマだと思います。
読み終わった時には、そのことが理屈を通してではなく、物語を通してをしっかりと手渡されていることに気づきます。いい本だなあと思います。
読み終わって、機会があったので、映画化された『手紙』を見に行きました。
さまざまな設定を少しずつ変え、なかなか面白かったです。でもみなさんもご存知のように、原作を超える映画ってないですね。
どこをカットし、どこをフィードバックの場面にし、などの映画化に際しての変更はよいとして、もっとも異なったのは、結末がはっきりしていたことです。弟は刑務所に慰問した際、原作とは違って、バンドではなく、漫才をしに行ったのですが、舞台の上から兄に向かって「縁は切れない、兄さんなんだ、血がつながっちゃってるんだ」と何度も言います。漫才の中で、何度も、そこにいて聞いているお兄さんに向かって、自分たちは兄弟なんだ、兄さんは兄さんなんだ、と訴えます。漫才を見ているお兄さんは、舞台に向かって合掌しながら、涙を流している、という場面で映画は終わります。声が出ない、という原作とは、感触がまったく異なるラストになっています。
泣ける映画です。泣いて、すっきりさえします。
映画と原作が異なるものであることもわかっていますし、たいていは原作にはかなわないのもわかっていますし、映画がはっきりした結末で落としたいのもわかります。
でも原作にあった、答えのないものを受け取ってしまう感覚がなく、気持ち良く泣けてしまう。
それがこのテーマに対してフェアなのかなあ?という違和感が残ります。こんな風に泣いて「感動!見るといいよ、泣けるから」と言えるものにしてしまっていいのだろうか? すっきりしちゃっていいのだろうか? と。
世界観も同じで、答えもないし、すっきりもしません。
人間がどんな存在なのか、生きながら考えるために産まれてきたと言ってもいい私達人間は、そんな風にすっきりと気持ち良く、世界観はこれです!とは言えません。そういうなかなかすっきりしないもの、重たいもの、言葉になりにくいもの、そういうものが「人間ってどういうことなんだろう? と、必死で模索する時に、私達の指先に触れるものです。すっきり、スマートにはいきません。
私達の生きている時代は、いろいろな場所にも行けますし、なんでもかんでもしたい事ができますし、そういう意味ではチャンスがいっぱいあります。でもだからといって、人間がどんな存在なのか、実感しやすいかというとそんな事はないのではないかと思います。また一つの傾向として、わからない中で、考えて、苦しんで、泣いたり、どうにもならないものを黙って長い時間抱える事を省きたがり、安易な答えですませてしまいたい強い癖を持っている時代ではないでしょうか?
そうしないとスマートじゃないし、スピードがでません。
でも、人間ってスマートでしょうか? そんなにスピーディに歩んで行かれる存在なのでしょうか?
わかっていてもできないことってよくあるし、なかなかそうできないこともありますよね。その苦しみをどうすればいいのでしょう?
答えは、問いをたてることが出来た時、そこにおぼろに浮かんでいる、をモットーに、また先生はシュタイナー以外にはいない、をモットーに、そして終わらない夜はない、をタイトルとして、ガイダンスを数回にわけて
書きます。実際にヴォルテの会員のみが受講できるガイダンスを主催者の準備が出来次第行いたいと考えています。
いったいどんな方法があって、どんな本を読めばいいのか?
そんなことをガイダンスとしてお話しし、受けた人が「よし、自分で歩いて行こう」と思えるようなガイダンスです。みなさんにとって、修行がどんなものがあるのか、地図かつコンパスとなるものになるよう、準備中です。
日曜午後クラス受講者以上の生徒は、全員必須とさせてください。
ムッティクラスを含め、午前クラスなどヴォルテのレッスンを受ける人には全員受講可能とします。
修行とヴォルテについて
アントロポゾフィとは人間観であり、世界観ですが、宗教と違うのは、自分で修行しながら実感していこう、という面です。
修行に関しては、ヴォルテでは指導しません、と言い続けて来ました。私のような人間の器を越えてしまうからです。私は言語造形の教師に過ぎないので、
そこまで安易に手を出したくないし出すべきではないと考えていました。
けれども、ヴォルテで学ぶステップは修行とパラレルだったりします。同じものではないので、言語造形をしているからといって、修行をしないでいい、と考える事はできません。アントロポゾフィの修行のステップを、言葉の芸術である言語造形で行っているので、生徒たちが、だんだんと修行を必要としている状態になって行く事を、この数年、見つめざるえませんでした。
私はドルナッハで学ぶことができたし、その後も色々な所で働いてから、日本に戻ってきたし、たくさんの現在日本で講師をしているような人たちをドイツ、スイスで見たので、どんな人たちなのかも知っている。ドイツ語で原著をいくらでも読む事ができる。でも私の生徒たちはどうなのだろう?
私のレッスンによって修行が必須になってきたというのは、私に責任があるのではないか。もちろんその成長はとても嬉しいですが、ヴォルテを始めた時には考え付かない事でした。私はしたくない、自分はその器じゃないから、と言って避けていていいのだろうか?
その問いを、ここ2―3年抱えてきました。
言語造形とオイリュトミーを学ぶ時は特に、この二つがシュタイナーの創始した芸術であるからなのだと思いますが、修行をしていくことが、必ず学んでいる途中で必然として現れてきます。修行を自分の人生に取り入れて行かなければ、もうそれ以上は学べなくなるのです。
日本で先生みたいな顔をしている人が、向こうでどんな人なのか。とっても不思議な変化ですが、それはここではこれ以上は触れません。さまざまな系統、流派、派閥があるシュタイナーの現在のムーブメント。どんな人でどんな経歴の人(つまりはどんなヒストリーを自分で生きてきた人なのか)が、修行についての講座、指導をしているのか。
私は手塩にかけて育ててきた生徒たちが、うーん、と思う人たちのところへ修行の講座を受けにいって欲しいのだろうか?
私に何ができるだろう。
それがこのガイダンスを始める一つのきっかけです。
終わらない夜はない
もう一つのきっかけは、自分と向かい合う事はとてもしんどいことだ、ということです。
ヴォルテのレッスンの密度が高いのは、自分と向かい合わなければ出来ない内容だからです。そのために、見学不可能になっていますし、レベルも設置されているし、個人レッスンシステムもあるし、と全てはそのためになっています。でも自分と向かい合うことは、時にはひとりぼっちの真っ暗な夜のようです。
ちょっと上手くいけば、すぐに天狗になってしまう自分。そうすると何もかもが空回りするし、他の人を知らない間にバカにしたり、踏みにじっていたり、
誤解したりしてしまっている。しかもその事にさえ気づかないでいる。でもだからといって、自分はダメとしか思えなくなってしまうと、本当の力が奥底から
出てこない。天狗にもならず、自己嫌悪にも陥らない、そんな場所に立てるようになるためだけにも、修行は必要です。
生きて行くって、なんでこんなに大変なんだろう?
なんでどうにもならないことしちゃったんだろう?
なんで言葉にもならないことを抱えて、人は生きているんだろう?
悟りを開くために修行をするんじゃありません。
肉だけじゃない自分がいて、魂だけでもなくって、精神もある。それをどうやったら、実際にここに生きていながら、実感していかれるんだろう?と思って歩む一歩一歩が修行なのです。
それは人間らしく生きて行くための、呼吸のように必要な作業なのです。御飯食べるのと一緒なんです。御飯食べてるだけで、悟りだの、うっすら目を細めて人を見やったりしていかにも、いかにもな態度を取る事ではないのです。
あなたが、人間らしく生きるための、必死の作業が修行なのです。どうにもならない、と感じた時、真っ暗な夜のなか、自分が一人ぼっちだと感じる時、そして夜は終わらないのではないかと思える時、私達が必死に自分を奮い立たせて行く手段が、アントロポゾフィの修行なのです。
自分をここで奮い立たせられない人は、まだ修行をする時期ではないと思います。
改めて修行をする事ができないほど、人生そのものがしんどい時期もあります。そんな時は、しなくてもいいですし、自分を大事に、大切にいたわって欲しい。そんな人にはマインバウムのレッスンをして欲しいです。
人生は私達一人一人のために、世界が作ってくれた修行の場みたいなもので、一所懸命生きてれば、それが修行、みたいなところがあると思います。私の人生は、私のために特別に作られた修行のプログラムといえます。そしてそこにはそれ以上のものがあることも私達はうすうす知っています。それなのに、できない。だからこそ、私は言いたい。終わらない夜はない、と。そう言って前へ進もうとする力が、私達一人一人にある。その泉に毎日触れようとする事が、修行なのだ、と。
アントロポゾフィの修行は、ムーブメントにちょっと浮き世だった傾向があるので、意外かもしれませんが、実はタフに実生活に関わるということです。逃げない、浮き世離れしない、そういう力が人間にある、と言うところがベースにあるので、夢見がちでお花畑で一杯になったり、異様に霊的に力こぶ入れ過ぎてしまうのは、シュタイナーがもともと目指していたものはないはずだ、と考えています。修行する事でいわゆる変な人になったり、イヤな奴になったりするのではなく、人間らしくなろう。
普通の私達、一人一人のために、シュタイナーは6000あまりの講演を行い、執筆をし、命の最後の一滴をしぼりとるまで、無私に働いて来ました。人間のもつそういう太陽のような明るさ、温かさ、柔らかさ、のようなもの。その爪の先くらいは、私達も自分でともすように、日々、必死にあがいてみてもいいのではないかと思います。
「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」というシュタイナーの著作があるのですが、私だったら、サブタイトルとして、「人間らしく生きるために」を入れたいです。今の時代、人間らしく生きていこうとするのは、けっこう決心して意識して、の努力が必要です。人間らしく生きていこうと決意したら、超感覚的な認識に突き抜けていた、という時代であり、それが現代における修行なのかもしれません。
自分に向き合うって、嫌になっちゃうことがあります。しんどくなっちゃうことがあります。特に日本の人は、心優しいせいか(?)心が倦んでしまいがちです。
でもね、思うんです。終わらない夜はないって。
そうやって生きて行ってもまだ修行って、凡人には遠いです。それでもいいじゃありませんか。
普通の人たちの普通の生活のなかに、どれだけ非凡な、素晴らしいものがこめられているのか、それが大事ですよね。当たり前のことですが、、、。
人って本当に何かのためになりたい。誰かのためになりたい、と思ったら、たいていはそれを完全に失ってから、だと思うのですが、立ち上がりたくなるはずです。確かにそれじゃ遅いです。でも遅いけど、本当に何も出来る事はないのだろうか?と考えるとそんなことはない、と思うのです。そんな底力に触れるのが修行であり、アントロポゾフィです。
立ち上がるのに遅すぎる、なんて事は絶対にありません。
落ち込んで、私ってダメな人間だ、と言って座り込んでしまう時期もあるかもしれませんが、本当に何かを失った時、それは出来ないのではないかと思います。そんな時倦んでいる余裕はないんじゃないかって。だから、そういう余裕がある方も、まだ本格的に修行ってしなくってもいいのかなあと思います。もしも私が本当に嫌になって、歩くのを止めたら、私が大事だった人やものごとは、本当に無になってしまう。そう思えた時、歩き始めればいいんじゃないかと思
います。
その時のためのガイダンスです。自分の人生を本当に奮い立たせたい時のための。
ちょっと上の段落は体験した事がない人には分かりづらいかもしれませんし、私の言葉に慣れていない方は意味不明かもしれませんが、私はそう思います。
まだ余裕があるんだよ、と。もうどうにもならないとき、本当に失った時、人はすごい力で立ち上がります。隠居もしないし、出家もせず、立ち上がって働き続ける感覚。それが修行する時のモチベーションだと私は思います。もうそれをするしかないんだ、と。
そんなわけで以下の項目に分けてご紹介していきます
1 アントロポゾフィとのさまざまな関わり方(全体)
2 どんな著作があるのか、その中で修行についての著作はどこに位置するのか
3 どんな方法があるのか
4 どんな本が日本語であるのか
5 何をどこまで、どんな気持ちでするのか
サイトではここまでしかご紹介できませんが、ヴォルテではこんなこともしているのか、とイメージが伝わればうれしいです。